約300年前に備前藩主池田光政の意により干拓が行われた。
明治5年に学制令が発布され,翌年明治6年に中川の地に8村が第二十三番学区中川小学と称して開校。明治8年には第三十一番中学区可知小学校となる。『可知』という地名は奈良時代に付けられた上道郡可知郷に由来する。当時は養蚕や織物が盛んな地域であったと思われる。
 大正前期には可知尋常高等学校となり,児童数も200名程度であった。戦後の昭和22年には学制改正で可知小学校となり,PTAも結成された。その後,西大寺市立可知小学校を経て昭和43年の合併に伴い岡山市立可知小学校となった。現在の校歌は昭和48年に新たに作成されたものである。昭和37年に県営住宅が益野団地としてできた頃より,学校を中心とした地域が急速に発展し,児童数も急増。昭和53年には1400名のマンモス校となり,翌年芥子山小学校と分離した。
 現在は世帯数約3600,人口約9200人である。学区は南北に長く5学区(財田,幡多,富山,政田,芥子山)と隣接している。田園も多いが,商業施設が充実し電車やバス等の交通の便がよく,住宅化も進んでいる。児童数は微減傾向にある。

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学区の概要・沿革