本校の紹介
     


江戸時代後期に活躍した医学者・蘭学者・教育者
             
「緒方洪庵」が生まれた地です。
     本校が、長年、教育活動で業績を顕彰している郷土「足守」の三偉人

            緒方洪庵
*上の似顔絵は、6月に行った本校の恒例顕彰行事「洪庵祭」において、6年生の児童たちが発表に使った作品です。     
明治・大正時代に活躍した白樺派の歌人
             
「木下利玄」が生まれた地です。
              木下利玄       寂厳 
*上の左の似顔絵は、2月に行った本校の恒例顕彰行事「利玄祭」において、6年生の児童たちが発表に使った作品です。  
*上の右の似顔絵は、1月に行った本校の恒例顕彰行事「寂厳とんど集会」において、6年生の児童たちが発表に使った作品です。  
江戸時代中期に梵語研究及び書家として名をはせた
                僧侶
「寂厳」が生まれた地です。
             
本校の周辺・本校写真

  学区地図

   





 
 学校の歴史
 (沿革史)


   



















































                    北                            東
      
        西                                          南
                     
上空から眺めた足守小学校付近の光景です。


































正門から見た校舎
























校舎から見た正門
*真ん中付近に、本校の運動場(白っぽい広場)、校舎、体育館(赤い屋根)、プール(水色)が見えます。プールの東側には「足守川が南北に流れています。足守川をはさんで、
西側の山は「宮地山」、東側は「鍛冶山」です。
*戦国時代、羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)が「備中高松城」を水攻めをしたときに、毛利軍と羽柴軍が対峙した場所です。「宮地山」には毛利軍の陣地、「鍛冶山」には羽柴軍の陣地がありました。
*本校運動場の北側には、豊臣秀吉の妻「北の政所ねね」の兄木下家定の子孫が代々藩主として治めていたときの館がありました。今は建物はなく、市民の憩いの広場(緑色の広場)となっています。そのすぐ東側には、明治時代に「白樺派の短歌」で名をはせた「木下利玄」の生家跡があります。「木下利玄」の父は最後の足守藩主の弟に当たり、「木下利玄」は、その最後の藩主の養子となっています。
*本校プール北側には、藩主木下家の庭園「近水園」があります。
*本校運動場の西側には、岡山市北区役所足守地域センター、地域の方々が利用している「テニスコート」(白っぽい広場)があります。また、運動場の西角付近には「木下家の家老宅」が昔の姿で残され、「侍屋敷」として一般に開放されています。
*足守川にかかっている橋は「葵橋」、その橋から西の総社市東阿曽に向かって昔の街道が走り、その街道沿いには江戸時代の姿をとどめた商家・民家があります。
*「葵橋」の東付近には、江戸時代、蘭学者・医学者として活躍した「緒方洪庵」の生家跡があり、ブロンズ像や顕彰碑が建立されています。
       
        上の写真にカーソルを置くと、子どもたちが現れてきます。
                       
       

         
       
       


本校の学区を上空から撮影した写真(一部写っていない箇所あり)

  

  

   学区の概要



 江戸時代のの風情を漂わす町並み



岡山県の指定名勝となっている近水園です。旧足守藩主の庭園(小堀遠州流)でした。庭園の中にある建物は吟風閣(ぎんふうかく)と呼ばれています。今から約300年前に藩主が建てました。近水園の外苑には、旧足守藩主木下家の古文書等が収蔵された岡山市立歴史資料館足守文庫の建物があります。この中には、豊臣秀吉やその妻北の政所ねねが使用したと言われている品々もあります。

      
ホタルが飛び舞う足守。 
  岡山市北西部に位置し、足守川流域に古くから開けた水田や畑が広がり、昔の風情を留めた町並みや豊かな自然が残されている地域です。学区内には竪穴式・横穴式の古墳や戦国時代の城や砦の跡が多数散在しています。また、、市内有数のホタルの生息地としても知られています。
 吉備路の一角を占め、旧足守藩陣屋跡、藩主庭園「近水園」、緒方洪庵・木下利玄の生誕地などがあります。特に江戸時代の風情を漂わす町並みは、県内でも歴史的に価値ある地域として、平成2年に「岡山県町並み保存地区」に指定されています。
 吉備高原につながる国道429線沿いには商店、事業所、病院、老人養護施設などが建てられ、徐々に市街化されつつありますが、文化・伝統の観光地としての整備は官民協働で徐々に進められています。
 学区内には、昔から居住している方が多く、地域の自然や社会をこよなく愛されています。新しく学区住民となった方々も学区の落ち着いた諸環境を大切にされています。
 足守出身の江戸時代の偉大な蘭学者であり医学者でもあった「緒方洪庵」のブロンズ像です。学区の方々が生誕地に建立されました。
 門弟には、福沢諭吉・橋本左内・大村益次郎・大島圭介等、明治維新前後で活躍した人々が多数います。緒方洪庵は、大阪の適塾にてこれらの門弟を指導しています(適塾は、国の重要文化財として大切に保存・管理されています)。また、安政5年に大阪でコレラが発生したとき、コレラ撲滅に尽力しました。さらに「種痘」の普及にも努めました。


本校敷地内にある武家屋敷の長屋門です。江戸時代の武家屋敷の建物です。岡山市重要文化財に指定されています。

   
学区内を飛び舞わっているジャコウアゲハ
です。本校の中庭でも幼虫のえさとなるウマノスズクサを植えています。子どもたちが観察学習をしています。
 
   本校周辺にある侍屋敷(旧足守藩家老の館)
本校の学区は、岡山市立足守中学校区の一角を占めています。中学校区には、平成23年3月までは本校を入れて市立4小学校がありましたが、本校以外の3小学校は統合され、4月以降は2小学校となりました。本校は中学校区の一番南に位置し、以前から児童数が最も多い小学校です。
      
  洪庵さくら祭り     足守メロン祭り       利玄もみじ祭り
本校学区内で行われる足守中学校区の3大祭りです。





足守の地は、昭和46年に岡山市へ編入されました。 
 足守の地は、応神天皇22年に、天皇妃兄媛命が、郷里吉備の国に帰った後、天皇も吉備国葉田の葦森宮(現在.の葦守八幡宮)に来られ、吉備氏の一統仲彦命にこの土也方を賜って、爾来その子孫の賀陽(香夜)臣が、代々この地方に勢力を振っていたと日本書記に伝えられている。その後、荘園が発達するに及び、足守荘・大井荘と称し、足守荘は京都の神護寺領となり、大井荘は相国寺領となっていた。降って戦国時代は備中・備前の国境で山城が重なり争乱の場と化していた。江戸時代に入り、元和元年に木下利房が2万5千石で足守:に封じられ、木下藩の城下町として政治・文化・商業の中心地として栄えた。明治4年、廃藩置県により足守県となり、同年11月県の廃合に伴い深津県となった。明治5年小田県と改称され、明治8年岡山県に合併された。現在の大字は、当時の村であり、各村に戸長が置かれた。明治22年6 月、町村制が施行され、足守村〈明治29年町制)大井村・日近村・岩田村・福谷村となり、昭和31年3 月、この 5か村が合併して新しい足守町が誕生した。(以上、旧足守町役場発行「あしもり」から抜粋)
 ・・・・足守町は、昭和46年に岡山市へ編入され今日に至っています。・・・・
       
右の白壁の建物は、現在岡山市重要文化財となっている「長屋門」です。現在の位置は、運動場の南東の一角ですが、この写真の時代は、運動場の南側にありました。写真の長屋門は、当時は正門として使われていたときの記録です。現在は、本校の倉庫、学区の子ども会の倉庫として使っています。
                                  
                                     足守出身
 ●安富才輔(1839年~1873年)
江戸時代末期、京都にて新撰組に属し、副長「土方歳三」の側近(勘定方)として、戊辰戦争最後の戦いの場「五稜郭」まで行動を共にした。足守藩士「安富正之進」の子
土方歳三が銃弾で倒れた際にその場にいたとのこと。新政府に降伏したあとは、地元「足守」に護送され、謹慎状態のまま明治6年に逝去。田上寺(足守)に葬られている。*山陽新聞H20.11.11記事より引用)
         
 足守川西岸から葵橋方向を臨む     足守川西岸の桜並木           足守小校庭の桜と鳥        足守川のヌートリア?(つがい)
        
  平成21年4月洪庵さくら祭り(左・・近水園吟風閣   中・・足守川河川敷    右・・近水園吟風閣)    
             
吟風閣では、放課後子ども事業「わくわくランド足守」で取り組んでいる茶道のお手前を児童が披露    近水園内では、本校の保護者で組織している「足守小おやじの会が児童と一緒に「ロボコン」を実演

 

建学の精神(校訓)  平成22年4月~

学校の歴史
 (沿革史)
平成22年度から
今ままで長期間に渡り、本校の「目指す児童像」とされてきていました。「目指す児童像」は、「学校教育目標達成時の期待する児童の姿」です。今後の教育改革や児童の実態等に沿って柔軟に学校教育目標の改訂ができるようにするため、今までの「目指す児童像」を「建学の精神」として校訓化しました。今後はこの「建学の精神」を永年の目標として大切にしながら、現在の学校教育目標から設定した「目指す児童像」を目指し、様々な教育活動に取り組んでまいります。
本年度の「目指す児童像」はここをクリックしてください。
             
平成24年2月で、本校が開校して140年目に入りました
(現在 本校は年齢満139歳)。

       
学区の様々な活動団体が、足守色を大切にした教育の推進に力強い支援をしてくださっています。
             
平成24年度 
岡山市教育委員会の主導の下、足守中学校区の幼小中一貫教育「足守型一貫教育」の推進に向け、昨年度(平成23年度)から継続して取り組んでいます。
     一貫教育推進にあたり」、 本校は 
平成23年度 学校要覧(外)
平成23年度 学校要覧(中)
             
平成21年9月 岡山市教育委員会から「岡山市地域協働学校」の指定を受け、地域住民代表、保護者代表、学識経験者、校長、教職員代表からなる「学校運営運営協議会」を立ち上げ、足守地区の他校園運営協議会とも連携しながら、学校経営・運営に取り組んでいます。                         
足守中学校区では、市立幼稚園1園、小学校2校、及び中学校1校が連携して、岡山市教育委員会の「岡山型一貫教育」推進に取り組んでいます。現在は、岡山市教育委員会の主導の下、教育課程の一貫性について協議中です。現在、蛍明小学校が中学校との「一体型校舎での小中一貫教育の推進」の構えを、本校は「非一体型校舎での小中一貫教育の推進」の構えをとっています。その関係を上の図が概略的に示しています。
             
足守中学校区の「岡山型一貫教育」の具現化策
○学習指導においては、「学び合い」 を大切にした指導方法
○足守地区の小中の一貫した特色づくりとして、ESD推進を図る「ユネスコスクール」への参加
(幼稚園は不参加)
を柱に検討中です。

*本校は、足守中学校区の他の小学校及び中学校と一緒に、「ユネスコスクール指定」に向けた英文申請による手続(岡山大学の協力を受けています。)を終えています(12月)。あとは、ユネスコ本部の審査を待つだけです。承認の是非については、数か月を要するとの「国内ユネスコ機関」から連絡が入っています(12月)。この「ユネスコスクール」に指定されると、国内外の学校と交流しながら、ESD(持続可能な社会の担い手を育成する教育)の推進足守中学校区の小中が連携して取り組みます。
             
平成22年度 学校要覧(中).pdf の画面に
             

        

    

  児童数の推移(各年度5月1日現在数)

年度 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22
児童数 209 195 185 159 160 151 150 161 161 171 187 186 189 187 177 191
 *平成23年5月1日現在 児童数 183名




左の写真は運動会の練習の光景です。
足守幼稚園の園児と本校児童が仲良く練習に取り組んでいます。

       
       

             

       

    
   校旗
*本学区を含む足守地区は県内でも有数のメロンの産地です。足守メロンとして市民に親しまれています。足守地区では、秋に本校周辺の旧足守藩陣屋跡広場等において地区あげての「足守メロン祭り」を開催し、足守メロンの生産を讃えながら地域の活性化と一体化を図っています。本校の児童たちも「祭り」に地域の一員として参加しています。当日たくさんの「足守メロン」が市価よりも安く販売されています。


古くからの歴史と文化、そして、現在のすばらしい生活環境  足守色を大切にしています。
「足守っ子白樺派街道」と愛称をつけた正門から校舎玄関までの通りです。ここには、足守の偉人として顕彰してきている歌人「木下利玄(きのしたりげん)」の短歌を掲げています。ここに示している短歌は、本校の学校行事「利玄祭」で毎年児童たちが大きな声で詠み上げる短歌です。本校の児童たちは6年間これらの短歌にふれながら学校生活を送ります。

【低学年が詠む短歌】 遠足の 小学生徒 有頂天に 大手ふりふり 往来通る
【中学年が詠む短歌】 
花びらを ひろげつかれし おとろえに 牡丹おもたく 萼(がく)をはなるる
【高学年が詠む短歌】 
牡丹花(ぼたんか)は 咲き定まりて 静かなり 花の占めたる 位置のたしかさ
 
                            
木下利玄が足守に帰郷したときに詠んだ
3首を加えて短歌6首を掲示(S21.10)

旧足守藩主の宗家を継いだ木下利玄(当時17歳)が帰郷して詠んだ短歌(左上の写真の中の高く掲げている「すのこ」に書き記しています)
○「幼(おさ)な覚(おぼ)え かすかにある山あらぬ山 送りむかふる 畷(なはて)みちかな」
*畷(なはて)とはあぜ道、一本道のこと。
○「あすたたん 御暇(みいとま)乞(こ)ふと 五月雨(さみだれ)に ぬれて詣(まう)づる 母のおくつき」
*「おくつき」とはお墓のこと。
○「遠(とお)つみおや 治めましける吉備の国 中(なか)つ国(くに)ばら 麦(むぎ)秀(ひい)でたり」
*「みおや」とは親や祖先のことで、尊敬語
「足守っ子 適々斎(てきてきさい)の路(みち)」
                  
*「適々斎」とは、足守出身「緒方洪庵」の医師としての号です。江戸時代の末期、医者・蘭学者・教育者であった緒方洪庵は大阪(当時は大坂)にて「適塾」を開き、明治維新に活躍した多くの人材を輩出しました。その「適塾」は、もともとは「適々斎塾」と呼ばれていましたが、いつしか「適塾」と呼ばれるようになったとのことです。本校では、「緒方洪庵」を郷土の偉人として顕彰し、学校行事として「洪庵祭」を毎年行い、顕彰教育に取り組んでいます。
                     
江戸時代中期の足守出身の書道の大家

   校内の掲示物   児童が描いた寂厳和尚

玄関前(西の塀沿い)   左隅に立札
「足守色」の表示記録 H21.8.7   「足守っ子野草庭園」等、運動場に立札を
H21.8.11  長屋門北に「木下利玄の紹介」看板を
H21.8.12  廊下・階段・昇降口等、校舎内に愛称表示を
H21.8.17  玄関前の通りに「木下利玄祭で児童たちが詠み上げる短歌3首」の立札を
H21.10.9  玄関前の通りに木下利玄が「足守に帰省したときに詠んだ短歌3首」の立札を
H22.1.13  玄関前の通りに「適々齋の路」・「緒方洪庵の教え」・「緒方洪庵の紹介」立札を
H22.2.4   玄関前の通りに「寂厳和尚の紹介」看板を



 
   
  
  郷土の偉人顕彰教育 

        本校の「特色ある学校行事」として、顕彰教育に取り組んでいます。

偉人(寂厳・洪庵・利玄)比較年表
人  物 活躍していた時代 活 躍 内 容 本校の取組
 寂厳和尚
   (じゃくごん)
(おしょう)

   
    児童が描いた寂厳和尚様
江戸時代


元禄15年(1702年)9月17日~明和8年(1771年)8月3日
僧侶   
書家   悉曇(しったん)学研究家

*悉曇とは梵語(ぼんご)、すなわち、古代インドのサンスクリットのこと。サンスクリッドとは、インドアーリア語族の語。
*日本に伝えられた釈迦の教え(経典)は、中国で翻訳された漢字によるもので、漢字に翻訳できなかった語は梵語のまま取り入れられている。

 足守藩士「岩田林蔵」の子として生まれたが、9歳の時、吉備津宮(現在の吉備津神社)の社僧「普賢院(ふげんいん)」(真言宗)の超染(ちょうぜん)に弟子入りする。
 11歳の時、出家し、「寂厳」と名乗る。
 19歳の時、円福寺(現在の倉敷市沖)の住職になる。
 34歳の時、幾内へ遊学し、元文元年(1736年)
 35歳の時、京都洛西の五智山で曇寂上人の弟子となり、悉曇(しったん)を学ぶ。
 寛保元年(1741年)40歳の時、宝島寺(現在の倉敷市連島町矢柄)の住職となる。
*この寺で梵語について多くの著作を残す。この間、地元をはじめ、京都や幾内、四国などに出向き、悉曇(しったん)学の講義を行っている。やがて、玉泉寺(現在の倉敷市)移り、学問に専念する。
*寂厳は江戸時代の著名な悉曇(しったん)学僧であるとともに、良寛(りょうかん)、明月(みょうげつ)、慈雲(じうん)と並び称される「近世の四大書僧」の一人として書家としても有名になった。
 70歳で生涯を終える。


*近水園に碑があります。
1月
「寂厳とんど集会」



*運動場で実施
*足守幼稚園児も保護者と一緒に参加(平成20年度)
*児童「集会委員会」が寂厳和尚についてクイズを用いながら紹介
*書写に対する願いを園児代表及び各学級代表が発表
*火を消す前に園児が灰の上を歩いて、健康を祈願。

当日の給食には、この集会を紀念して、「ぜんざい」を献立として出しています。

  
             
緒方洪庵
   (おがたこうあん)




   
   児童が描いた洪庵様
     若いときの姿
     医者になったときの姿
江戸時代

○1810(文化7年)
旧暦 7月14日午前5時から6時ごろ
 足守で誕生

○1826(文政9年)~
 大坂(大阪)にて、蘭方医「中天遊」に学ぶ

○1831(天保2年)~
 江戸にて「坪井信道」「宇田川玄真」に学ぶ

○1836(天保7年)~
 長崎にて、オランダ医師「ニューマン」から学ぶ。

○1838(天保9年)~
 大坂(大阪)の瓦町にて、蘭学塾「適塾」を開く。

○1839(天保10年)
 足守藩主の侍医に就く。藩主から3人扶持を受ける。

○1843(天保14年)
「適塾」を瓦町から過書町に移転

○1849(嘉永2年)
 越前の笠原白翁と京都の日野鼎哉の好意で痘苗を分けてもらい、種痘に取り組む。

○1850(嘉永3年)~
 足守にて「除痘館」を開き、種痘を行う。

○1862(文久2年)
*この年、和宮内親王が将軍家茂に降嫁

 徳川将軍家の奥医師・西洋医学所頭取を拝命する。

○1863(文久3年)
旧暦 6月10日
 江戸にて死去(53歳)

 遺体は駒込の高林寺に葬られる。
医師
蘭学研究者   医学研究者

1825年(文政8年)16歳の時、足守藩士の父に伴って大坂に移る。蘭方医中天遊に師事。21歳の時、江戸に上り、坪井信道、宇田川玄真から蘭学を学ぶ。27歳の時、長崎に下り、オランダの医師ニューマンに師事し、西洋医学を学ぶ。その後、大阪に戻り、蘭学塾「適塾」を開き、福沢諭吉、大村益次郎、橋本左内、大島圭介等、幕末から明治維新にかけて活躍した門弟を輩出する。また、大坂(当時の大阪)や足守の地にて種痘を行い、多くの子どもたちを救う。江戸幕府の奥医師として招かれた翌年、53歳で江戸の地にて生涯を終える。

緒方洪庵の医者としての号は「適適斎(てきてきさい)」です。
*「緒方適々斎」の塾として大坂の地にて「適適斎塾」を開きました。この塾がやがて簡略されて「適塾(てきじゅく)」と呼ばれるようになった。


   
生家跡ににあるブロンズ像(全国から募金を募り、平成2年7月15日吉備郡医師会と地元有志が建立。建立経費1405万円強。)
*この碑の下には、洪庵のへその緒と産毛、元服の時の遺髪が埋められている。
*ブロンズ像建立を機に、「緒方洪庵顕彰会」が地元有志により結成された。その後、緒方洪庵を後世まで顕彰する目的で、地元の児童・生徒を対象とする「緒方洪庵作文コンクール」が発案され、平成3年9月7日第1回コンクール表彰式が開催された。以後、毎年コンクールが行われ、平成9年からは、「木下利玄作文コンクール」も企画され、2つのコンクール表彰式が同時に行われるようになった。
            
近水公園にある「足守文庫」には、長崎での修業の帰り、足守藩主に献上した日本最古の寒暖計が展示されている。
     
            適塾だった建物
*2009年1月~3月
某テレビ土曜時代劇「浪速の華~緒方洪庵事件帳~」で、洪庵様の医学への志が劇的に描かれていました。


緒方洪庵が詠んだ「種痘」の大切さを訴えた短歌
「年ごとに 
   生(お)いそふ野辺(のべ)の
        小松原(こまつばら) 
   千代(ちよ)に茂(しげ)れと 
        うゑ(え)もかさねん」

*毎年、元気に生えてくる野辺の小松原のように、元気に子どもたちが育ち、今後子どもの数がどんどん増えるように、天然痘予防のために牛痘の苗(牛の天然痘の苗、今で言うワクチンのこと)を代々子どもたちのにうえ重ねていこう(接種していこう)との思いを詠っています。最後の句には、種痘を意味する言葉「うえもがさ」が隠されています。
6月
「洪庵祭」
*命日又はその周辺の日に祭りを設定


  最近の洪庵祭

*緒方洪庵生誕地で開催
*児童「実行委員会」が司会進行

*学区内の緒方洪庵顕彰会の方も同席。
*献花・黙祷
*6年生全員、紙芝居等を用い、意見発表
*郷土の偉人「緒方洪庵」の業績について顕彰会の方から講話。

*全員で清掃活動
  

 昭和49年度の洪庵祭

6月
洪庵定食

*当時、洪庵様が食べていた食材を用いた献立を毎年給食に出しています。
・かやくごはん さばの塩焼き、なめたけの味噌汁 

足守の母上様が大阪で冬を過ごしたとき、家族一緒に「味噌しる坊一膳」に食べに行った際の思い出の献立と言われています。 
*毎年、顕彰会から「洪庵饅頭」をいただき、給食と一緒にいただいています。    
                            
               足守川にかかる「葵橋」の東付近に「緒方洪庵生誕地」の道しるべ

   
    ごく最近まで残っていた緒方洪庵活躍当時の「足守除痘館(じょとうかん)」の建物(足守川の「葵橋」の東付近)の写真。現在は解体されています。
木下利玄
    (きのしたりげん)


*本名は「きのしたとしはる」
明治~大正時代

生年: 1886-01-01
明治19年
○1891
  足守藩木下家宗家の養子となる。
○1899
 佐々木信綱に師事
○1910
 雑誌「白樺」を発行
○1911
 東京帝国大学卒業
○1923
 文芸誌「日光」の創刊に加わる。
没年: 1925-02-15
大正14年
歌人(短歌)  
旧足守藩主木下家宗家養嗣子

14歳で佐佐木信綱に師事。学習院時代に、学友の武者小路実篤、志賀直哉らとともに雑誌「白樺」を発行(明治43年、25歳の時)。白樺派の中心的な作家として短歌や散文を発表。大正12年「白樺」終刊。利玄は通算短歌52冊に876首発表。大正13年39歳のとき、歌壇の反アララギの大合同誌「日光」を創刊。同人となる。
                 
             木下利玄
【経歴等】
明治19年1月、足守に生まれる。父は最後の足守藩主「木下利恭」の弟「木下利水」。6人兄弟の次男

旧足守藩主「木下利恭」の死去に伴い、木下宗家の養嗣子となって上京。
*上京する際、関係者は鎧姿で見送る。
*旧足守藩家老「木下岡次郎」及び旧臣「二階堂左馬七」を後見人として伴う。

            写真は送別時の記念写真(中央の幼児が利玄)
    
明治24年 東京・千代田区富士見小学校入学。
明治25年 転居し、9月学習院初等科に入学。武者小路実篤と同級生。
明治30年 9月学習院中等科入学。12月寮生活に入る。旧臣からの束縛から解放される。
明治32年 10月佐佐木信綱の竹柏園に入門する。
明治35年 志賀直哉が同級生となる。
毎時36年 東京に出てから初めて足守に帰郷する。学習院高等科に進学。
明治38年4月 父親の見舞いのため足守に帰郷。
明治39年2月 父親の看病のため足守に帰郷。父親逝去。 9月 東京帝国大学文学部国文科に進学。
*武者小路実篤は社会科へ、志賀直哉は英文科に進学
6月~7月 志賀直也など友人たちとと福島(会津)・新潟(佐渡)に旅行する。
明治40年 22歳のとき、白樺派の源流となる「例の文学読合わせ会」を志賀直哉宅で開く。
明治41年3月、志賀直哉等と愛知・奈良・京都・大阪・和歌山に旅をする。
明治43年4月 同人雑誌「白樺」を創刊。同人には、木下利玄をはじめ、志賀直哉・武者小路実篤・正親町公和・有島武郎等、12名。
明治44年5月 横尾照子と結婚。7月東京帝国大学卒業。10月夫人とともに足守へ帰郷。
大正元年9月 東京目白中学校国語教師となる。
大正6年 夫人の健康慰労のため教師を辞する。夫人とともに大正7年まで旅をする。熱海・伊勢・奈良・京都・大山・松江・津和野等
大正6年 神戸市に夫人とともに一時転居。
大正7年 歌集を出版するため東京に帰る。
大正8年 鎌倉市へ転居。
大正9年 肋膜炎を患う。
大正12年 関東大地震に遭う。同人雑誌「白樺」が終刊。
大正13年 反アララギ派合同雑誌「日光」の同人になる。
大正14年 1月29日危篤状態となる。2月15日逝去。郷土足守の大光寺に埋葬。
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 旧藩士の会「表衷会」の尽力により近水園の池内の鶴島に歌碑が建立される。(昭和12年)
「花ひらを ひろげ疲れし おとろへに 牡丹重たく 萼をはなるる」
*明治45年「白樺」6月号で発表した短歌。前年の明治44年10月に、父親の供養のため、足守に婦人とともに帰郷している。

亡くなったあくる年の大正15年、「木下利玄全歌集」が出版される(岩波書店)。

作品の一例
「牡丹花は 咲きさだまりて 静かなり 花の占めたる 位置のたしかさ 」
「うぐひすは鳴きすましをり頂上の笹原照りつ曇りつするも」
2月
「利玄祭」

利玄の命日(2月15日)又はsの周辺の日に実施。



*近水園で開催
*利玄生家の前を通る。
*6年生が意見文を発表
*利玄の歌を、低学年・中学年・高学年ごとに大きな声で詠む
*6年生が司会進行
*校歌を児童伴奏で歌う
*放課後、5年生代表が新任職員とともに墓参し・献花。菩提寺「大光寺」を訪問。
 

 
   木下利玄のお墓

2月
利玄ランチ

*大正5年から6年にかけて、キャラメルや饅頭を好む木下利玄様が奥様と日本各地を旅行した際、洋食を好んで食べていたとのことにあやかり、当時の洋食を再現し、毎年給食の献立に加えています。
・手作りコロッケ
・キャラメル
・クリームシチュー等

 

 
  添えているキャラメル
    
         
本校のすぐそばにある近水園「吟風閣」(江戸時代足守藩主木下家の別邸)に掲げられている木下利玄の代表作


本校の 誇れる施設  です
           
     本校校庭にある土俵場                                       相撲大会(3月)
          
      足守川そばにある本校のプール       水泳実習(6月~7月)                プール門のすきまから飛び込み台「5」が見えます。

       
市重要文化財に指定されている本校の倉庫「長屋門」(江戸時代に建築された門)


地元出身の篤志家
   
 左の写真の方は、大正から昭和にかけて、本校の施設・設備の充実に多大な貢献をしてくださった地元足守出身の実業家「藤田聯藏(ふじた れんぞう)」様です。旧足守町の町長をも務めた方です。
 現在は取り壊されてありませんが、運動場北の2棟の校舎、運動場西に建築されていた講堂、現在も教育活動に使っている運動場の南西にある相撲場、学校の塀として残っている石柵等を寄付してくださった方です(~足守町立足守小学校)。
 感謝を込めて、校舎内に写真を飾り、児童たちに藤田聯藏様の篤志について伝承しています。

寄附により建築された

運動西にあった講堂
運動場北にあった木造校舎2棟

藤田聯藏様から右上の写真当時の校舎の模型も寄贈していただいています

大正11年に寄付によりできあがった石柵

昭和17年に寄贈された相撲場

   

校内にある顕彰碑(運動場西南の一角、昭和32年建立)
                            
体育館にある現在使用しているピアノは、「藤田聯藏(ふじた れんぞう)」様のご子息「藤田正蔵(ふじた しょうぞう)」様よりご寄付いただいています。


学区内の龍泉寺(下足守)から毎年児童のためにとお志を賜っています。岡山市のきまりに従い、岡山市寄附採納の手続を経て、岡山市の蔵書として図書を寄贈していただいています。本校図書館にて児童たちが学習に活用しています。
                               
  日本書紀によると、葦守八幡宮がある場所は応神天皇が行幸された場所で、御友別命の第2子仲彦が応神天皇の仁徳を偲び、この宮を建てたとのことである。御友別命の第2子仲彦が香屋(賀陽)臣の祖となり、鎌倉時代まで、足守を中心に勢力を広げていた。
  戦国の世を過ぎ、江戸時代に入ると、豊臣秀吉の正室「北の政所(ねね)」の兄にあたる「木下家定」を祖とする木下藩が足守を治めた(途中、幕府に領地をとりあげられたり、領地替えもあったが、明治のはじめまで木下藩が続いた)。葦守八幡宮はこの木下家の総鎮守とされ、保護されてきた。

足守学区の歴史を語る 「葦守八幡宮」

鳥居は、国の重要文化財
 冠山の北の参道口にある鳥居は「国の重要文化財」に指定されており、南北朝時代のものである。当時は、賀陽氏一族が神主・祝主を務めている。花崗岩でできている。高さ5.33m、柱間3.33m、柱周1,37m、控え柱の高さ2m、幅は右3.3m、左1.7m。康子安元年・・・と銘がが打たれている。康安元年は西暦1361年である。                                 
                               
 この鳥居が立っている場所は、昔の「大山みち」いわゆる「伯耆街道」の一里塚があった場所。