〜岡山市一宮の歴史〜

1 岡山市一宮の地理的環境

 一宮は,岡山市の西の方に位置します。岡山駅から西へ約3km。国道180号線が一宮を南北に分かつように通っています。また,総社に向かう吉備線もはしっています。(最寄りの駅・・・備前一宮駅)
 砂川・中川(笹が瀬川の支流)が広い田園を潤し,吉備の中山が端麗に鎮座する一宮。さて,どのような時を刻んできたのでありましょうか。

2 岡山市一宮の歴史的環境


  弥生時代
 一宮は,笹が瀬川の沖積作用によってできた平野である。少し視野を広げると,吉備の中山の西方(旧足守川流域)に高田遺跡・惣爪遺跡・津寺遺跡・新邸遺跡・川入・上東遺跡・楯築遺跡など弥生時代の遺跡が多く見られる。弥生時代後期に,畿内・九州と匹敵するほど栄えた「吉備の国」の中心地は,この旧足守川流域である。
 そのとなりに当たる一宮の地にも,弥生時代の遺跡があっておかしくはない。
 岡山市の吉備の中山の調査によると,吉備の中山の東麓に,土器散布地が広く分布している。西辛川の畑でも,弥生土器片らしいものを確認することができた。

  古墳時代
 吉備の中山にある「矢藤治山古墳」は,向木見型(矢藤治型)特殊器台を出土した墳長35.5mの最古型前方後円墳である。(注1)
 さらに,それに続く古式の「中山茶臼山古墳」。特殊器台型埴輪が,発見されたとされる約120mの前方後円墳である。
 そして,134mの前方後円墳「尾上車山古墳」(通称ギリギリ山古墳)と前方後円墳の築造が続く。

 古墳時代の後期,吉備では大きな前方後円墳が作られなくなり,横穴式石室が内部主体となる古墳が築造されていく。
 吉備の中山にも,石船古墳,藤原成親供養塔下古墳など横穴式石室を持つ古墳が多数存在する。
 横穴式石室を持つ群小墳は,「豪族」の墓ではなく,有力農民の墓である。

  以後
・吉備津彦神社・・・592年に建てられ(お宮の古い記録から),後に備前一の宮という高い格式をあたえられた。
・律令時代の条里制のあとが残っているという。(吉備津彦神社の参道を条里の基線としているらしい。)
・源平の戦いや南北朝時代に,辛川で合戦があった。
・辛川の宿(辛川市場)・・・鎌倉時代の末から市場(めいめい作った物を売ったり買ったりするところ)として栄えた。
 (奈良時代には,山陽道の駅が設けられていたという)
・旧山陽道・・・五街道の一つである旧山陽道が学区を横切っている。辛川市場の唐川橋から国道180号線を通って(国境石もある)板倉の一里塚まで地図で見ても分かる通り,まっすぐな道である。辛川の合戦がこの地であった理由の一つであろう。ここを多くの旅人や大名行列・豊臣秀吉などが通ったのですね。すごいなあ!

<参考文献>
「郷土読本 一宮の歴史」 一宮町教育委員会 1970年
「えとのす 25」 新日本教育図書 1984.8
「垣間みた吉備の原始古代」 近藤義郎著 吉備人出版 1997.10
 *(注1)は,この書籍の記述から

文責 犬飼建介

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