Botanist Dr.Ichiro Oga

The authority of ancient lotus research
 大賀一郎博士は、 1883年に現在の岡山市の川入に生まれました。
 
 岡山第一中学校(現在の岡山朝日高等学校)を卒業後、第一高等学校を経て、東京大学に進みました。東京大学での専攻はアサガオでしたが、のちに古代ハスに興味を持つようになりました。

 1917年からは南満州鉄道株式会社の研究員として満州で研究生活を送りましたが、1932年からは東京に戻り、大学の教壇に立つかたわら、古代ハスの研究を本格的に行いました。

 1951年には、千葉県で2000年前の地層から発掘された三つの古代ハスの種子のうち一つを開花させることに成功し、世界的に有名になりました。

 現在、私たちの学区にある庭瀬城址の堀にも大賀博士の古代ハスが植えられ、7月になると美しい花を咲かせます。




   現在も7月になると美しい花を咲かせる大賀ハス


   吉備地区地域活性化推進実行委員会「ハス博士
    大賀一郎没後三十年遺品展パンフレット」による



大賀一郎博士
(1883〜1965)
吉備地区地域活性化推進実行委員会「ハス博士
 大賀一郎没後三十年遺品展パンフレット」による


 
    故郷に寄す 岡山と二千年ハス

 私にとって故郷ほどなつかしいところはない。19才の若い日から外に出ている私は、いくたび「もう故郷に帰ってしまいたい」と思ったかわからない。郷里の友や先生にも相談したが、いつも私の帰郷(ききょう)に賛成してくださらない。私はどんな仕事をしてもいい、ただ口をすすぐだけでよいから、何か仕事をして晩年を郷里で過ごしたいと思った。しかし、誰も賛成してくれない。思い切って帰ってしまえば何とかなるかもしれないが、しかけている仕事もいろいろあるから、そんな無計画なこともできないので、いつの間にか機(き)を失って今日になってしまった。

 私も日本国中はもちろん、東西両洋(とうざいりょうよう)の所々の山河(さんが)にも接したが、なつかしいこの郷土の静かな山河に比(ひ)すべくもない。若い日の思い出は、いつまでも懐かしい。
 伊豆青ヶ島(いずあおがしま)の漁民が、度重なる天災地異(てんさいちい)に荒らされても荒らされても、なお孤島(ことう)に帰還(きかん)を欲しているという話は、私の幼い日の淡(あわ)い記憶である。
 
 昨年の初春、私は二千年ハスの種蓮根(たねれんこん)を後楽園(岡山市)の池に植え付けるために帰省(きせい)した。そして、池田厚子夫人のお手植えにあずかって一生一代の光栄に浴(よく)した。それから8月1日には観蓮会(かんれんかい)が鶴鳴館(かくめいかん=後楽園内の建物の一つ)で開かれた。これには知事さんはじめ、岡山の風流人(ふうりゅうじん)が多勢あつまってくださった。ほんとうにうれしくあった。それから世界各地の各種のハスを岡山に植えて蓮華蔵世界(れんげぞうせかい=仏教用語で宇宙全体を表す)を実現しようと思っている。
 
 岡山のことばかり言ったが、私はもともと生まれは、岡山に隣接(りんせつ)する吉備町の小西という小さな在所で、先祖は3〜400年前からそこに住みついていたものであるが、明治の中年に岡山に出て後、中学の業をおえてから東京にうつり、それから名古屋、満州などの地方あるきをしばらくし、その間にちょっと欧米にも行ってきて、この30年ばかりは東京に住まっているが、7、8才の頃までいた小西のことや小学校に通っていた記憶もまた私の心から離れない。この吉備町には、先輩犬養木堂先生が生まれ、野崎広太氏が生まれ、また同窓公森太郎君が生まれた。この頃は帰郷のたびに、私はこの三人の先輩の墓に詣(もう)でることを楽しみとしている。年をとるとどうも古いことが懐かしい。笑わないでください。

 この頃この吉備町に帰ると、いつも中学校や小学校に立ち寄ることにしている。昨年私の研究のために廃品回収をして研究費を集めてくれてから急に中学校が私の心に近くなった。
 今年は年賀状が沢山来たり、この頃も病気するとまた見舞い状が沢山来た。子供たちまでこんなに私のことを思ってくれているかと思うと、老いの目に涙がこぼれる。私はいつも郷里が懐かしい。これは私の一つの病(やまい)かもしれない。笑わないでください。

吉備地区地域活性化推進実行委員会「ハス博士 大賀一郎没後三十年遺品展パンフレット」に掲載された文章を、一部平易な言葉に改めて引用したもの。





吉備中学校を訪れた
大賀博士(昭和32年1月)

山陽新聞社所蔵

この写真は、山陽新聞社の許諾を得て掲載しています。


参考文献 吉備地区地域活性化推進実行委員会「ハス博士 大賀一郎没後三十年遺品展パンフレット」 平成7年6月