箕島の歴史 | ||||||||||||||||||||||||||||||||
箕島の由来 箕島は、かつて「三島村」と表記されていた。 「三島村」の「三島」とは、三つの島から名付けられた。 「丸島」「小山」「亀島(上の山)」が、その三つの島である。
早島丘陵は「吉備の穴海」に浮かぶ島であり、 箕島の人々も漁労によって 生計を立てていたであろうと想像される。 <かつての箕島付近 想像図> 江戸時代の新田開発 〜国境争い、汗入水道〜 江戸時代になり、日本全国で新田開発が活発に行われる。 早島丘陵付近も、 足守川の堆積作用によって「吉備の穴海」は次第に浅くなり、 干潟の海を埋め立てての新田開発が進んでいく。
門前新田などがあるようだが、その開発年は定かではない。 <箕島の新田> 「妹尾・箕島のむかしをたずねて第2輯」から作図
金比羅往来 金比羅往来とは、 香川県の金比羅宮に参詣する街道のことである。 江戸時代に、船乗りや漁民だけでなく、商工業者から農民に至るまで 海上守護・災害除去の神として崇拝された。 金比羅往来は、岡山城下から大供、野田、米倉、妹尾、早島、 茶屋町、藤戸を経て、下津井まで続く。 この金比羅往来が、箕島にも通っている。 ※ 箕島周辺地図参照のこと。 赤松や呑海寺で若干それるが、 箕島小学校の前の道路(県道倉敷・妹尾線)が 金比羅往来であった。 多くの旅人が行き交った様子を想像していただきたい。 ※ 県道倉敷・妹尾線は、昔は「土手」とよばれていた。 豊臣秀吉の五大老の一人である宇喜多秀家が、 早島・帯江を干拓するために築かせた 潮止め堤防「宇喜多土手」に続く道である。
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